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JP氏の刑務所に入るまでの記録

JPのプロフィールそしてこの牢獄での生活が始まるまでの記録を書き記しました。

氏名  JP
住所  高知県
罪名  強姦罪 4回
刑期  RECLUSION PERPETUA ×4(永久)
    *最長2029年8月22日までの不定期刑
    20年~40年×4回=80~160年
    40年以上の有罪刑が無い
    刑期の計算
    入所後 1~3年は1年プラス60日=3年プラス180日
3~7年は1年プラス96日=4年プラス384日
7~10年は1年プラス120日=3年プラス360日
10年~は1年プラス180日で計算する
    Reclusion Perpetuaは
        服役年数役12~13で減刑の申請が出来る
裁判所  セブ州ダナオ地方裁判所25支所
事件番号 1793.1794.1795.1796
弁護人  WALTER LAWAS(宣誓供述書のみ。公判出廷なし)
     JOSELITO ALO
通訳   旅行ガイド、元エンターティナー女性
告訴人  GARLIEN C PEREZ
検察官  GENEROSO CAPUYAN 途中DSWDからのリクエストで除外
FELIXBERTO GEROMO
裁判長  ESPERIDAON C RIVERAL 退職
臨時裁判長 MEINRADO P PAREDEA 公判2回判決
     (DSWD 社会福祉開発省)


逮捕、判決までの経緯
1996年8月15,16日とセブ州北部有る小島(ダアーンバタヤン)に行くえ不明の内縁の妻の父が居るとの事で居場所を知っている従兄弟と私と内縁の妻と3人で来ました。1泊泊まりで16日午後父を含む4人でダナオ市の私のアパートに帰ってきました。18日父親は1週間位で帰って来ると言って帰島しました。5日後ノ23日父親は私達の居るアパートに帰ってきました。娘と一緒に同居、原則には私も賛成しました。父親と私の内妻は10年以上も会っていなかったとの事で本当に嬉しそうで毎日話しをしたり、料理をしたりでした。父親が酒飲みのため私も一緒に少しの量だけ付き合ったりして、日々を過ごしました。
9月4日内妻の義父と娘2人(一人は告訴人)と計3人でアパートに来ました。      私が9月8日、日本に帰るまで一緒に居ることで私を入れ計6人の一時的な同居が始まりました。7日には母親が来るまでに成りました。何とかケンカ等の問題無人の日々が過ぎました。9月8日早朝5時に全員でセブ国際空港まで見送りに来てくれました。
8月に仮に私が告訴人を強姦する事が出来るのなら。18日午後~23日午前まで。(図1)を見れば分かるように、声を少し出せば必ず誰かに分かるはずです。しかし5日間は私には証明する物が在りません。法廷でも何時とかの日時がありませんので証明が出来ません。
11月15日、日本の住所に内妻から長女が7日に生まれたと電報が届きました。17日にセブのアパートに行った所、知らない人が居ました。話では内妻はアパートを引き払って、彼女の実の姉の嫁ぎ先のサンダヨンという山村に居るとの事、夕方5時30分位いでした。タクシーの運転手に訳を言って何とかサンダヨンまで行って頂きました。道中は道と言える道も無い所で無理矢理行ってもらいました。姉の嫁ぎ先に着いたのは夜の7時30分位、回りに民家は二、三軒の山村、近所の方が気付いて内妻を呼んで頂きました。その夜は内妻、長女、告訴人と一緒にセブ市内のホテルに1泊しました。次の日またダナオ市に戻り新しいアパートを探し、又セブのホテルに泊まるを繰り返し24日に新しくアパートを借りる事になりました。※3月13日まで告訴人の件と関係無し省略。
1997年4月9日フィリピン、セブ州ダナオ市のアパートに直行、アパートに入ると内妻、長女、メイドのバールジィ、内妻の友人のシャネットが私を迎えてくれました。告訴人は4日から姉の嫁ぎ先に手伝いに行っていること(姉が水疱瘡の為)
10日 午前10時位、姉と夫、子供2人、告訴人がアパートに来る。4時位に洗濯があるので嫁ぎ先に帰って行きました。
11日私、内妻、長女とセブ市に行く(以前からメイドのバールジィに次に私が帰ってきたときは、彼女の田舎(ビサヤ)に行く飛行機のチケットと休みをあげる約束をしてたので飛行機のチケットを買う為)午後4時過ぎにアパートに帰って来る。同時に告訴人も姉の所から帰って来ました。夜は近くの日本人(I日本から同行)のアパートへ行ったり来たりしていました。
12日 午前5時に空港へ見送り、午後5時位に帰る。Iのアパートに通約の為、行ったり来たり。
13日 午前10時位からIの所へ出入り(通約の為)午後5時位、内妻の母と叔母、夫、子供、2人が来ました。話しをしたり、食事したり、酒を飲んだりした後、9時位に帰っていく。
14日 午前7時に内妻の母親が来る。私、内妻、長女、母、告訴人とセブ市に行く。午後4時位に帰る。夕方、Iの事で女性が来る。通訳、1万ペソをIに貸し女性に支払い帰って頂く。夕方、母が帰る。
15日 母親が私達と同居を願う。午前9時位に荷物を持って来る。夕方、メイドが彼女の姉の夫と田舎から帰って来る。一緒に酒を飲む。
16日 午前中、Iが来る。彼の明日の誕生日の相談、酒を飲む。
17日 朝からIの誕生日の為、彼のアパートに行く。午後10時位に帰る。
18日 Iの所のメイドが私を呼びに来る。一緒に酒を飲み午後10時位に帰る。
19日 明日のカモテス島(ダナオ市から南東に小型の船で2時間)に近所の人達と行く為に内妻、告訴人が朝から買出しに行く。午後6時位に近所に店を持っているN氏夫婦が来る。8時過ぎに帰る。
20日 午前7時にカモテス島へ行く。
21日 午後3時ごろアパートに帰って来る。長女少し熱が有る。全員が疲れた為、早く寝る。
22日 長女の熱が下がらず、近所の医者に往診に来てもらう。長女の看病をしつつ全員早くから寝る。12時位にテレビの音がするので早く寝る様に注意。
23日 長女の熱が下がらず、近所の別の医者に往診に来てもらう。彼は小児科専門と知り合いから聞き、告訴人に呼びに行ってもらう。応診の結果、前の医者の処方した薬が子供には非常に強いとの事、大人の薬を処方していた。夜、Iが日本に帰るための相談。
24日 Iのメイドが呼びに来る。日本に帰る為の飛行機代の相談。酒を飲み夜10時位に帰る。
25日 午前10時位から、私、内妻、I、彼女とセブ市にチケットの予約に行く。アパートに帰って来るなり熱が出る。
26日 私は高熱のため、近所の医者に往診してもらう。午後から2、3回安否を気遣いIが来くる。
27日 又、往診に来てもらい、点滴をしてもらう。午後2時~10時位まで点滴、午後から数回、Iと知人が安否を気遣い来る。
28日 目眩、熱が有り、Iが時々安否を気遣い来る。早く寝る。
29日 午前7時位、姉が来る。洗濯多しとの事で告訴人に手伝い求め、一緒に姉の嫁ぐ先に行く。
30日 まだ体調が優れず、午前10時位、Iが来る。夕方、パンの手産
※ 以上が4月の私の行動です。3日連続で3回も強姦は無理と思います。
※ 尚、告訴人は訴えで強姦をされた日時が無し、月だけでどうして有罪に出来るのか?又、告訴人は強姦された時、学校の制服を着ていたとの供述、4月はフィリピンの学校は全て夏期休校です。又、3回の内1回は外の庭を母親が清掃していたとの事、私が居た部屋は外から中が見える。ましてガラス窓でないので少し声を出せば、母親に聞こえたはず。アパートを替わるごとに一緒に来た。等々と不快な点がある。

5月7日 Iが日本に帰る。
9日 ジンジンコンパウンドに引越しする。3号室に入室、4号室は日本人のO岡氏。
13日 酒に酔って私は内妻とケンカ、内妻の頭を縫うほどの怪我をさせてしまう。
18日 メイドが給料を催促して来た。初めての事。
20日 メイドと告訴人が早朝から家出、内妻と長女を連れてセブ市に探しに行く
24日 ケソール(告訴人の実家)に内妻が探しに行く、午後アパートに帰って来るが長女を連れて私のパスポートと現金を持って出て行きました。2,3日後、近所の人から内妻と告訴人が私を警察に訴えたのこと(強姦罪)、私は何もしていないから、問題が無いので、有難うと言って帰ってもらいました。数日後、裁判所からの呼び出し状が、来ました。私は知人に説明して、どうすれば良いかアドバイスをお願いしました。近所にワルサーと言う弁護士が居るからと知人は、私を弁護士の所に連れて行ってくらました。一応の話を終え、私の反論供述書を作って頂き、後日裁判所に行き、告訴人とDSWSと話し合いをしました。先方は訴えを取り下げないとの事。結局、逮捕状が出ました。ワルサー弁護士に仮に逮捕になれば保釈は取れるかとの私の質問に2、3年拘置所に居て、それから、出してやると言われ、解雇しました。
知り合いが、副市長と仲が良いとの事で相談に行きました。副市長は気のよい人で、彼の同級生のアロー弁護士を紹介してもらい、後日、アロー弁護士に会い行き話しをしました。本当に私が強姦をしていないなら、弁護を引き受けると言って、彼を雇いました。その後、知り合いに裁判長のESPEIDION RIVERALと検察官のGENEROSO CAPUYANを紹介してもらいました。知人はやはり比処フィリピンはコネが無いと弱いと私にアドバイス、知人に連れられ裁判長の自宅に挨拶に行きました。彼は私に対しての逮捕状を出した人を知り、初めはビックリしてましたが、話を聞き問題無し、無罪に成ると言ってくれました。後日(レッチョンと洋酒と少しのお金を届けに行きました)。数日後、今度は検察官に挨拶をする為、セブ市内のホテルに行きました。当日はセブ市全部の検察官の会、少しの間、話をして彼も裁判長と同じ問題無し、無罪に成るとの事
※ 後に検察官はDSWSのリクエストにより私達の法廷を除外されました。裁判長も又、判決前に退職しました。数日が過ぎ、私は知人に内縁の妻と子供に会って話をしたいと相談しました。彼はどうなるか分からないが、DSWSに行ってみるよとの事。私は逮捕状が出ている身分、本来は会える訳がありません。知人と彼の奥さんが、面会するとの名目。私は車の後部座席に身を潜めて場内に潜入。思った以上に簡単でした。内妻は初め恐る恐る出て来ました。私の居るのに気が付き混乱し、知人が、話が出来る状態まで落ち着かせてくれ、何とか話が出来ました。内妻は自分達のした事を謝り、早期にDSWSを出て私の所に帰って来ると言いました。
※ 後日、私が保釈中、告訴人に会った時、彼女も2、3回DSWSを出ようとしたが、捕まり、職員からは、もし告訴を取り下げる事が有ればなど色々と脅かされて、怖くてDSWSの職員の言う事を聞くしかなかったとの事。事実、警察では1回の強姦が、DSWSによって3回も増えた。
9月1日 私はセブ市に有るSMデパート内の銀行へ、カットムーンと言うセブ島北部に在る町(身を隠して所)から出向いていました。SMデパートの駐車場に着いた時、当時のセブ警察のCIS部署に逮捕されました。CISの取調べは無く、私物は全部取られました。一緒に居た知人が弁護士に連絡をして、翌日、面会に来ました。あと地方新聞社2社が来て、写真を撮られて少しのインタビュー、私は強姦を否定しました。
9月3日 ダナオ市に移送されました、9月10日、16日、19日と公判をし保釈されました。
※ 後日、保釈に理由を尋ねると強い証言、証拠が無いとの事、日本では起訴も出来ません。12万ペソの保釈金(40万円弱)は私にはありませんでした。知人が土地を担保にして保釈してくれました。
約4年の保釈の間、裁判をして2001年7月16日が判決日に決まりました。16日当日の判決は20日に延期との事。理由は事件当時、告訴人の年齢がわからない。12歳の時では刑の重さが大きい。
20日 弁護士は時間になっても来ない。電話をするとタイヤがパンクとの事で結局、法廷に居合わせた他の弁護士が私の判決文を聞くとの事、私は何も分からないまま終了しました。手錠を掛けられ拘置所に帰りました。夕方になって弁護士がきました。彼の一言目はもう一度保釈を取るとの事。私は一言、もういいです。帰ってください、あなた方の事が、信じられません。控訴もしなくていいです。モンテンルパに行きます。その翌日、大使館の電話番号も分からず、手持ちの本にS山さんの電話番号が在ったのでフィリピン在住、セブに近いと思って電話したが通じない、O昭さんに電話するが通じない。やっと分かったのがセブの日本領事館、電話すると出ました。近日中に行けると思いますとの返事。
結局は、翌日にロボットみたいな爺さんが来ました。面会は10分以内、名前、年齢、住所、罪名
マニュアル通りの質問が終わり、じゃあ頑張ってねと。帰って行きました。
8月19日 セブ港からフェリーでマニラに出発(囚人3名、刑務官4名、内縁、子供2人、母親、全ての家財を売って、最小限のバック7個)
20日 マニラ港着、昼ごろモンテンルパ刑務所RDCに着きました。10日位して当時の領事が面会に来ました。弁護士等の相談しましたが、領事からの返事は、大使館は何も出来ないとの事。母親からの送金手段を聞くと大使館は銀行では、ありませんの一言でした。後は言葉も出ません。10分弱で私は面会を放棄した部屋に帰りました。

冤罪で捕まった者の事考えた事有りますか?冤罪で捕まって居る者の寂しさ、苦しさが分かりますか?誰も信じられなくなり自殺まで考えた者の気持ち、分からないですよね。逮捕されたから、有罪判決になったからと言って、犯罪者扱いするのはどうでしょう。この様な事は、在フィリピン大使館だけですか?大使館職員だけの考えでしょうか?邦人保護とは、どの様な業務の意味を持っているのでしょう?事件、事故に巻き込まれたリ、でっち上げの事件で逮捕された者も居ます。在日本国大使館は立場から、自国民の保護、救済のため、事実関係を調査し、その現実に元ずいて、早期の措置を講じてほしいと思います。信頼を得る大使館ではなく、信頼出来る大使館になって頂きたい。
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刑務官の副業

ニュービリビット(モンテンルーパ刑務所)より1通の手紙が届いた。

早速お二人に会いに刑務所に面会に行った。そこでお二人から聞いたいろいろなお話、
彼らが書き記している日記、他をここでご紹介していくことにした。

彼らが本当に無罪なのかどうかの審議はわからない。しかし彼らが経験してきたことは計り知れないことばかりで我々がフィリピンと言う国とかかわっていくのであればいざそういう事件に自分が巻き込まれたときに役に立つ事が日記に書かれている。彼らの日常起こる刑務所内の出来事から、、彼らの訴え、愚痴、他をここで紹介していきたいと思う。

ここから彼らの支援者が出てくるかもしれない?彼らはそれも期待していると言うことは本音の部分で話してくれた、、一人でも多くの人が彼らの獄中からの呼びかけに答えてくれればどんなにうれしい事か、、ほとんどの人には信じてもらえないと自覚しているしかし何処かに理解してくれる人がいるはずだとそれを信じて日記を書きたいと思う、

最後に二人が口を合わせて言っていました、我々が外にいたとしたらこのような訴えに恥ずかしながら多分耳を傾けなかっただろう、、囚われの身となり初めてはめられた囚人の気持ちがわかった。まさか自分がこのようなことになるとは夢にもおもわなかった。と、、

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手紙1

手紙2


獄中日記

天候、晴れ、夕方から雨、今日土曜日は、ステイ、イン(妻子の宿泊可能)である。日本の刑務所では考えられない。
僕は日本の刑務所へ入った事が無いが、本や知人から聞いたが、面会室での面会で、ガラス越しの会話。刑務官が会話を聞いており、指1本も触れる事が出来ない様だ。しかしフィリピンの刑務所はどうだろう。面会者の妻子が宿泊できる。考えられない。日本の刑務所で禁止されている事でもモンテンルーパでは可能である。覚せい剤、大麻、その他魔薬と名の付くもの全て有る。外部からの持ち込みは、不可能、過去に何度もパクられている。職員は持ち込み可能、安給料だから、副業として最高。日本の刑務所と違う所はモンテンルーパ刑務所には、ビデオケ、バスケットボールコート、テニスコート(テニスコートは元議員のプライベートコートも有る)ビリヤード場もある。今までテニスもやった事無い人間が刑務所でテニスを憶えてゆく。又、フィリピン人は、ギャンブルが好きで、ビリヤードでギャンブル、トランプ、コインの裏表(カラクロス)バスケットボール、以前は鶏闘も有った様だ。これらのギャンブルにしても本来は禁止されているが職員が上前を盗る(強盗のようなもの)中国人はトランプかマージャン、掛け金が違う。職員からすると、上客は中国人。中国人の大半が、ドラックスケースが多い。外部と連絡を取り合い、覚せい剤の売買。キロ単位の取引きをしている。刑務所内には、中国人は約100名ほどと思う。携帯電話は禁止されているが、かなりの台数が有る。携帯も職員が持ち込み囚人に売られている。又、職員に1000ペソ(約2500円)を支払い持ち込んでもらう。囚人の中には、チンコロ屋が居て、携帯の隠し場所等を通報し、職員より現金を受け取る。その携帯電話を職員は販売させる。携帯をパクられた囚人は、懲罰房へ入るかいやなら示談金を支払う。全て職員に金が入るシステムは出来上がっている。
今日の食事
朝食、ご飯とイワシ2匹(乾燥させた物で臭い4センチ位
昼食、ロミー(フィリピン風うどん)
夕食、イワシの缶詰め半分
僕の今居る所は、マキシム・セキュリティー・コンパンドと言って長期刑を収容している、近くにミディヨム・セキュリティー・コンパンド(中期刑)もう1ヶ所ミニマム・セキュリティー・コンパンド(短期刑)、長期刑だけでも12088名の囚人を収容している。食事に関しては、外部の業者で中国系のM,キコという会社が入っている。
マキシムの外にダバオ、パラワンの労働刑務所も担当している。相当な人数の食事を供給している。1人の囚人に対して、1日35ペソ(約100円弱)らしいが、僕が毎日食事していて1日35ペソとは思えない。どう見ても25ペソ(約65円)位だろう。例えば1日10ペソを詐欺したとすると囚人は約12000名、1日当り12万ペソ、1ヶ月360万ペソ、1年で、4320万ペソ(1億円強)を詐欺していることになる。会社側は、刑務所の上層部へ上納金を納めていると思う。労働刑務所を含めると膨大な数字となるだろう。。

外に出られぬまま亡くなった日本人服役者

ニュービリビット(モンテンルーパ刑務所)より1通の手紙が届いた。

早速お二人に会いに刑務所に面会に行った。そこでお二人から聞いたいろいろなお話、
彼らが書き記している日記、他をここでご紹介していくことにした。

彼らが本当に無罪なのかどうかの審議はわからない。しかし彼らが経験してきたことは計り知れないことばかりで我々がフィリピンと言う国とかかわっていくのであればいざそういう事件に自分が巻き込まれたときに役に立つ事が日記に書かれている。彼らの日常起こる刑務所内の出来事から、、彼らの訴え、愚痴、他をここで紹介していきたいと思う。

ここから彼らの支援者が出てくるかもしれない?彼らはそれも期待していると言うことは本音の部分で話してくれた、、一人でも多くの人が彼らの獄中からの呼びかけに答えてくれればどんなにうれしい事か、、ほとんどの人には信じてもらえないと自覚しているしかし何処かに理解してくれる人がいるはずだとそれを信じて日記を書きたいと思う、

最後に二人が口を合わせて言っていました、我々が外にいたとしたらこのような訴えに恥ずかしながら多分耳を傾けなかっただろう、、囚われの身となり初めてはめられた囚人の気持ちがわかった。まさか自分がこのようなことになるとは夢にもおもわなかった。と、、

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手紙1

手紙2


獄中日記

今日は朝から、日本晴れと言いたい所だが、ここではフィリピン晴れ。僕にとっては今日は大切な日である。クリスチャンとしての洗礼を受ける。外部からマニラ日本語教会(MJCC)から8名、ジュン先生の方々が訪問され、洗礼を受け、これで僕も正式にクリスチャンと成りました。
へブル13章5-8節の中で、あなたを見捨てない。又、ただの人間が私にどんな手出しができましょう。イエスは、昨日も今日もいつまでも変わることがありません。この言葉は僕にとって心強い言葉である。
今日もニュースではフェリーの沈没事故の二ュース、アメリカ海兵隊は到着しているが、一行に進展はない。事故から6日、生存者が居るとは考えがたいが、発表では、乗客862名、実際はそれ以上と思う。過去のフェリー事故で、会社側の発表は約800名の死亡、実際は4000名の死者を出したのですから、明らかに定員オーバーフィリピンの利益追求制度、こんな事故が発生しても、大統領はアメリカ訪問、いいえ旅行でしょう。。。立派な大統領です。どんなスキャンダルにも負けません。日本であれば、すぐに離職してますね。AKは、高熱と口内炎で苦しんでいる。今月で6日目。刑務所にも病院と名がつくものは在るが、急患で病院へ行っても、医師が不在、薬が無いと言う理由で、明日とか、金曜日の夜に病院へ行くと月曜日に来るように言われる。生死を伴う病気の場合、まった無しである。重病の場合、所外の総合病院へ行くが、現金が無ければ病院へも行けない。金が無いイコール死。
昨年10月6日、日本人のM山氏が亡くなった。病名は発表はしないが、ガンと思われる。所外の総合病院で検査を終っているのにもかかわらず、何ら治療もされず、亡くなる当日、血を吐き、病院へ運ばれたが、帰らぬ人となった。数日後、日本人全員が参加して、ミサが行われたが、そこはビックリ、死体が10体以上全裸のまま並んでいた。変色し、ミイラ状態の死体も又、奥様に臭い、例え様がない。神父が鼻にタオルでおさえて、ミサを行ったのが、記憶にある。僕が2001年~2002年10月まで、入管の拘置所で拘置されていた時で日本人が3名死亡、ここ刑務所でM山氏、4名の死を見てきた。明日は我が身、これが実感である。
今日に食事
朝食、コッペパン1個
昼食、野菜の煮物(野菜はドロドロ、かぼちゃが入っているらしく、下痢便風野菜の煮物)
夕食、小麦粉と不明の肉(肉の棒1本)

2008年6月27日金曜日
今日は、前日程、日差しは強くなは無いが暑い。生ビールでもと言いたいが、刑務所は禁止。しかし刑務所内では闇で販売してる。ビールは無いが、安物のブランディー小ビンで500ペソ(約1250円)大ビンで1200ペソ(約3000円)で販売している。面会者が持ち込む事は不可能、入場の際の手荷物検査、身体検査が行われるので無理。職員が持ち込んで、大きな利益を得ている。又、囚人が、刑務所内で密造している酒類もある。僕も以前飲んだ事があるが、下痢で一晩泣いた事もあった。下痢だけで命は助かったが、中には工業用アルコールで製造した酒を飲み死者を出したことも有る。2002年には、一度に23名が死亡している。2005年には2名が病院へ担ぎ込まれたが、1名は現金が有り薬を購入出来たので助かった、しかしもう1名は文無し、そのまま天国か地獄かは不明だが、あの世行き(ブランディーは外の店では小ビン40ペソ(約100円)大びん80ペソ(200円)の物)フェリーの沈没も進展しない。船内に危険な薬品が積まれているため、船内に入る事が出来ない模様だ。危険物の等の持ち込みは禁止されてると思うが、、、、
今日の食事
朝食、チョプラド(飯をおかゆ状にし、ココアと砂糖を入れた物)大の大人が食べる物じゃない、子供のおやつダヨ!!
昼飯、豚のレバーの煮物(レバーは3cm角位)前回、下痢を起こした為、食べる勇気が無い
夕食、アジ(4~5センチ位ホルマリン漬け)魚も自己防衛の為、食べれない。
夕食は昨日、僕の洗礼に来て下さった、マニラ日本語教会の方より頂いた、日本のレトルトカレーをベースにローカルのカレー粉、ジャガイモ、ニンジン、玉ねぎ、にんにくを入れ調理し食べた。カレーを食べるのも何ヶ月ぶりだろう。うまい!!
日本大使館が3ヶ月に1度面会に来るが、その際、食品を持ってきてくれますが、震災用の非常食です。毎回、カレー、シチュー、缶詰め類を持参するが全てといって良いほど賞味期限切れ。2002年、2004年の刻印が輝いていた。パイナップルの缶詰めを開けた時パイナップルが茶色でした。我々、囚人に人体実験されては困りますよ。外務大臣。
今日はギャンググループのC(コマンド)とS(スポットネック)の殴り合いの喧嘩が有った。借金のトラブルらしい。刺し合いには成らず、死者、負傷者は出ていない。時々、敵対グループの場合、殺し合いのケンカとなる。個人対個人がグループ対グループと成り、ナイフ、時には手製のショットガン(フィリピンギャンググループではスンパという)これを使うと、職員もM16、ショットガン、拳銃を使用し死者、負傷者は当然。ギャンググループに他に拳銃、手りゅう弾を所有するが、戦争にならない限り使用しない。(2006年12月のハッピーゴートBCの対立の時には、囚人側にマシンガンが有ったが、その後の検察では発見されていない。)

壁の中の教会

ニュービリビット(モンテンルーパ刑務所)より1通の手紙が届いた。

早速お二人に会いに刑務所に面会に行った。そこでお二人から聞いたいろいろなお話、
彼らが書き記している日記、他をここでご紹介していくことにした。

彼らが本当に無罪なのかどうかの審議はわからない。しかし彼らが経験してきたことは計り知れないことばかりで我々がフィリピンと言う国とかかわっていくのであればいざそういう事件に自分が巻き込まれたときに役に立つ事が日記に書かれている。彼らの日常起こる刑務所内の出来事から、、彼らの訴え、愚痴、他をここで紹介していきたいと思う。

ここから彼らの支援者が出てくるかもしれない?彼らはそれも期待していると言うことは本音の部分で話してくれた、、一人でも多くの人が彼らの獄中からの呼びかけに答えてくれればどんなにうれしい事か、、ほとんどの人には信じてもらえないと自覚しているしかし何処かに理解してくれる人がいるはずだとそれを信じて日記を書きたいと思う、

最後に二人が口を合わせて言っていました、我々が外にいたとしたらこのような訴えに恥ずかしながら多分耳を傾けなかっただろう、、囚われの身となり初めてはめられた囚人の気持ちがわかった。まさか自分がこのようなことになるとは夢にもおもわなかった。と、、

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手紙1

手紙2


獄中日記
今日は、朝から快晴で少し蒸し暑い。台風の雨がと少しでもと、自分勝手に言いたいことを言っている。
月曜、火曜日と面会日では無いので静かである。21日に沈没したフェリーの救出は全くといってよい程進んでいない。フィリピン海軍のヘリコプター、少数の部隊が出動している位。沈没してから4日が経過しているので、死体が数体、海面に上がった方を回収している。家族の思いは、どんなものだろう?内外から救援物資等が届いているが、これは、台風に関して
も同じで有るが、被害者の手元に届くには、一部、政府関係の私物となるのが、常。
米不足で海外からの支援は有るが、一般庶民には、届かず、政府関係者が販売している。
フィリピンに対しての援助国は、アメリカ、日本、オーストラる後の事。これは教育に関してだが、その金銭は、どこへ消えているのか、それは、はっきりしている。他の国の援助が有るが学校建設は、進まず、全てが不足している。これじじゃあフィリピンの未来は無いに等しい。
今日の食事
朝食、ソウパス(日本のシチュー似ているが、クリーミーではなく、水ぽい、気持ちだけミルクが入っている。それにマカロニと僕は、鶏肉と思って食べたが、骨が鳥にしては、細い、フィリピン人に聞いたところ、ネズミとの事、ゲ~ェ
昼食、野菜の煮物
夕食、イワシの缶詰め一人半分。:過去、イワシの缶詰めは消費期限切れ。ネコも食べない物を人間が食べていた。冗談とは思うが、猫が食べて死んだという話しも

今日は、朝から気持ちの良い快晴
僕は、クリスチャンですから、教会へ行き、モーニングデポーション。ここの刑務所には、カトリック、イグレシア、プロテスタント、モスリム、4等の教会が25教会以上有ると思う。中には、複数の教会のメンバーになる。なぜか?それは、クリスマス、アニバーサリーと教会から、石鹸、歯磨き、シャンプー、タオル、サンダル、食品等、ビヤヤと言って、もらえるからである。もらった人は、その品物を売って現金化する。それらの情報は、速い(今日、OO教会のアニバーサリーだぞ)と、普段なら、20~30名の礼拝が、その日に限り100名以上まで集まる。神様、ごめんなさい。アーメン
夜、何か変な女性の声がした。トイレへ行く、ついでに様子をうかがったところ、みんな真剣な顔で、テレビから目を離さない。又、右手が激しく上下ピストン運動を、左手には、タオル、アッ!!OOOOか!!恥ずかしくも無く、よくやるョ。
前にOOOO中に急にテンカンの発作を起こし泡を吹いたヤツもいた。又、たばこを吸いながらOOOOしていて、人から(タバコの灰の事を注意され)、殴り合いケンカ。
人間じゃねェヨ、猿かそれ以下だ。
今日の食事
朝食、フィリピンのおかゆ
昼食、豚肉の脂肪、2cm角位、スープなし
夕食、バゴス(フィリピンのナショナルフィシュ、5cm弱位)魚は、いつもの様にホルマリンの臭い。(ビヤヤとは刑務所の言葉で、プレゼントと言う意味)
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プロフィール

管理人

Author:管理人
メールアドレス  free4649@msn.com

P J  1962年2月4日生まれ 46歳   
    罪名 強姦罪 刑期 無期1997年9月1日 1997年9月1日 12歳の子をレイプしたと訴えられセブ署にて逮捕 9月3日ダナオ刑務所に移管2週間後保釈、2001年7月20日 判決 2001年8月20日 モンテンルパ刑務所に移管


P J  1957年5月5日生まれ 51歳            
    罪名 詐欺罪 刑期 16年~20年 2001年9月24日 マカティ警察 逮捕 拘留 9月27日ビクータン入国管理局留置所 2002年10月4日 判決が下り 2004年10月10日 ニュビリビットモンテンルパ刑務所 Mediam 入所 2006年4月6日無期死刑房に移管、現在に至る。

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