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PJ氏の経歴

名前   PJ
住所   東京都
罪名   詐欺罪
刑期   12年〜20年
裁判所  マカティ地裁 ブランチ148
事件番号 01−1593
裁判官  OSCAR B PIMENTEL
告訴人  NORIYUKI SONODA
証人   BRENDA SANTIAGO
弁護士  ROIAND VILLENES
通訳   吉野 フジオ
被告弁護士 バルセロナ

逮捕から刑務所への記録
2001年9月16日  マカティ警察逮捕
2001年9月20日  入国管理事務所、拘置所(ビクタン)
2002年10月4日  判決
2002年10月10日  モンテンルパ刑務所(サンパギッタ中期刑)
2006年4月6日   モンテンルパ刑務所(長期刑)
 
告訴人Sと知り合った時期及び経緯
2000年7月下旬ころ、BULI Muntinlupaの知人、ロディ・リントの自宅に訪問していた時知人宅の前の住むMという女性に、日本に居住する恋人、Sに電話してほしいとの依頼があった。ミカとがSが知り合った場所は、アラバングに所在する、ビデオケ(チェック ポイント)で客として来店したSを知ったそうだ。
7月下旬、ミカの依頼により、Sに電話した。その後、何度か電話しフィリピンに来た場合、会う事を話し合った。ある日、僕がラスピニャス市内で、トライスクールの乗車中、財布を遺失した。財布の中身は、現金、クレジットカード、ATMカードであった。ATMは日本国内専用。8月に入り、僕はSに事情を説明し、送金してもらった。
第1回目は、2000年8月7日 10万円
第2回目は、2000年8月11日 20万円
第3回目は、2000年9月3日 80万円
第4回目は、2001年1月10日 160万円
第5回目は、2001年4月10日 15万円
を送金してもっらた。
受け取り方法は、第1回から第3回は銀行振り込み。第4回、第5回はDoor to Doorにより受け取り。
2001年4月13日、パサイ市在住、サンファン病院にて、ブレンダ・サンチャゴに会い借用書を渡した。印紙なし
初めて借用する時に、住所、家族の住所は知らせて有る。フィリピンも含め、Sと初めて会ったのは、2000年10月5日午後4時過ぎ、ホテル、ホリディ・イン・マニラ。Sが日本から同行してきた者は、日本人4名同席した者は、ブレンダと運転手のペピィト。ホテルのロビーで当時、副大統領のアロヨが来館していた。この事実がSの面会がホリディ・イン・マニラと解ける。第2回目、2000年10月10日、Sの帰国日、午前中、ホリディ・イン・マニラにて。第3回目2001年3月25日、ホリディ・イン・マニラの合計3回の面会。
裁判では、現金を僕に渡したのは、ブレンダで直接渡したと証言、場所は2000年1月7日にブルバードマンション。7月21日マンダラヨン、9月3日バリオフェスタ、2001年1月1日バリオフェスタと偽証している。私が、Door to Doorで受け取った証人は多数存在する。
告訴人と証人は、裁判では、僕とSでフィリピンで質屋の開業資金として渡した、と証言しているが何の証拠も存在しない。事実ではない。
僕は、弁護士バルセロナに対し無実の証人、Sの宿泊するホテルの調査、又裁判では、質屋に関して質問する様に話しをしたが何も行われていない。ブレンダが直接、現金を渡したすれば、必ず領収書が有るはずです。しかし提出されていません。質屋に関しても何も証拠は無い。日本人通訳、Yだが、私が選任していない。告訴人が選任した者で、僕には了解を取っていない。告訴人は日本在住の日本人との金銭の貸借問題は、日本で言う民事事件ではないでしょうか。又、僕がマカティ警察に逮捕された理由が判りません。住所地でもありません。
発生場所といっても、Door to Doorで受け取った場所はラスピニャス市です。告訴人は日本、証人はサンタロサ・ラグーナです。
告訴人がフィリピンにて、現金を渡したと強調しているのは、日本から送金ではでフィリピンの事件を立件するのは不可能であるからと思う。

法務省のガイドラインは、ミニマムセンテンスの2分の1を経過している場合、減刑の申請が可能。もし減刑が認められた場合、仮出所の申請も可能となる。

※ 裁判中に自称、裁判官のアシスタントのドンから毎日の様に、TEXTが来た。100ペソ支
払えばジスミスにする。払わなければモンテンルパ20年と何度なくTEXTが届いた。僕は
証拠としてその内容を弁護士に全て送ったが、何の行動も取らなかった。
※ 判決の日には、弁護士、通訳、不在のまま判決を言い渡された。判決後、私は控訴の意志
を告げたが、控訴となっていなかった。
※ 書き忘れていましたが、私の証拠として、日本の銀行口座の証明書、日本からの送金等
記載のもの。私の無実を証明する、証人等の弁護士に伝えたが、裁判では一切証言して
いない
※ 原告側の証人、ブレンダ・サンチャゴが直接、現金を渡したと証言しているが、もし現金を渡
したのであれば、領収書等は有るのか。
※ 質屋の開業と証言しているが、計画書、その他、証拠として一切提出していない。その開業
資金を詐欺としたら、借用書は何の意味があるか?私がSと面会したホテルに対して、弁
護士は何も調査もしていない。
※ 私は、Sと始めて面会したには、2000年10月5日であるが、Sは、それ以前からの知り合い
と証言している。私にSを紹介した。ミカなる女性が、証言すれば、事実が判明する。



Q, 今後の目標は?
A, 1日も早く出所する事が、第一目標です。今年3月31日付で、減刑申請は提出済みで、
回答待ち状態である。家族の問題で、二人の子供の日本国籍の取得と妻、子の日本へ
の渡航に関する件。(事件外)
Q, 出られる確率は?
A, 僕の刑期は、12年〜20年で、通常で2010年に仮出所の申請が可能である。もし減刑が
認められると多少、早められると思う。
Q, いつ?
A, 2010年と思われる。
Q,今の支援団体は?
,A. 事件に関して支援団体等は無い状態です。
Q,大使館は何をしてくれるのか?
A, 断言できる事は、無いの一言。

※ 僕は、逮捕時、警察より、大使館へ電話を掛け相談したが、面会は無し、5日後、入国管理
事務所の拘置所(BID)に拘留中、数ヶ月後に面会に来た。っ領事に対し、僕は無実を主張
したが、領事は一言、フィリピンでよく有る話し、フィリピンへ来た。あなたが悪い。であった。
在フィリピン日本大使館の領事とは思えない発言である。
※ 逮捕行為、被疑事実、等の事実関係の調査無し
※ 弁護士、通訳等、選任に対して、非協力的
※ 裁判に対する、中立、公平等する調査無し
※ 大使館、領事は、事件に関して、フォローアップは行うがバックアップは不可能との回答。
無罪を主張している者に対してバックアップは、必要不可欠と思う。大使館としては、事件
       に関して、触れたく無い体制である。以前、大使館として、減刑の申請を依頼したが、前例
       が無いで終わった。今年3月31日付の減刑申請では、Board of Pardons and Paroleへ申
       請書が届いた有無の確認のみである。

再審理を考えた時期も有ったが、裁判費、弁護費用等を考えると、簡単には動けない。2001年から現在まで、7年服役し、あきらめ半分あと、数年で仮出所と思っている。大使館が、もっと積極に協力して頂ければ、もう少し違った考え、行動が取れたと思います。しかし可能であれば、無実として出所したい。悔しい思いだけが残る

JP氏の刑務所に入るまでの記録

JPのプロフィールそしてこの牢獄での生活が始まるまでの記録を書き記しました。

氏名  JP
住所  高知県
罪名  強姦罪 4回
刑期  RECLUSION PERPETUA ×4(永久)
    *最長2029年8月22日までの不定期刑
    20年〜40年×4回=80〜160年
    40年以上の有罪刑が無い
    刑期の計算
    入所後 1〜3年は1年プラス60日=3年プラス180日
3〜7年は1年プラス96日=4年プラス384日
7〜10年は1年プラス120日=3年プラス360日
10年〜は1年プラス180日で計算する
    Reclusion Perpetuaは
        服役年数役12〜13で減刑の申請が出来る
裁判所  セブ州ダナオ地方裁判所25支所
事件番号 1793.1794.1795.1796
弁護人  WALTER LAWAS(宣誓供述書のみ。公判出廷なし)
     JOSELITO ALO
通訳   旅行ガイド、元エンターティナー女性
告訴人  GARLIEN C PEREZ
検察官  GENEROSO CAPUYAN 途中DSWDからのリクエストで除外
FELIXBERTO GEROMO
裁判長  ESPERIDAON C RIVERAL 退職
臨時裁判長 MEINRADO P PAREDEA 公判2回判決
     (DSWD 社会福祉開発省)


逮捕、判決までの経緯
1996年8月15,16日とセブ州北部有る小島(ダアーンバタヤン)に行くえ不明の内縁の妻の父が居るとの事で居場所を知っている従兄弟と私と内縁の妻と3人で来ました。1泊泊まりで16日午後父を含む4人でダナオ市の私のアパートに帰ってきました。18日父親は1週間位で帰って来ると言って帰島しました。5日後ノ23日父親は私達の居るアパートに帰ってきました。娘と一緒に同居、原則には私も賛成しました。父親と私の内妻は10年以上も会っていなかったとの事で本当に嬉しそうで毎日話しをしたり、料理をしたりでした。父親が酒飲みのため私も一緒に少しの量だけ付き合ったりして、日々を過ごしました。
9月4日内妻の義父と娘2人(一人は告訴人)と計3人でアパートに来ました。      私が9月8日、日本に帰るまで一緒に居ることで私を入れ計6人の一時的な同居が始まりました。7日には母親が来るまでに成りました。何とかケンカ等の問題無人の日々が過ぎました。9月8日早朝5時に全員でセブ国際空港まで見送りに来てくれました。
8月に仮に私が告訴人を強姦する事が出来るのなら。18日午後〜23日午前まで。(図1)を見れば分かるように、声を少し出せば必ず誰かに分かるはずです。しかし5日間は私には証明する物が在りません。法廷でも何時とかの日時がありませんので証明が出来ません。
11月15日、日本の住所に内妻から長女が7日に生まれたと電報が届きました。17日にセブのアパートに行った所、知らない人が居ました。話では内妻はアパートを引き払って、彼女の実の姉の嫁ぎ先のサンダヨンという山村に居るとの事、夕方5時30分位いでした。タクシーの運転手に訳を言って何とかサンダヨンまで行って頂きました。道中は道と言える道も無い所で無理矢理行ってもらいました。姉の嫁ぎ先に着いたのは夜の7時30分位、回りに民家は二、三軒の山村、近所の方が気付いて内妻を呼んで頂きました。その夜は内妻、長女、告訴人と一緒にセブ市内のホテルに1泊しました。次の日またダナオ市に戻り新しいアパートを探し、又セブのホテルに泊まるを繰り返し24日に新しくアパートを借りる事になりました。※3月13日まで告訴人の件と関係無し省略。
1997年4月9日フィリピン、セブ州ダナオ市のアパートに直行、アパートに入ると内妻、長女、メイドのバールジィ、内妻の友人のシャネットが私を迎えてくれました。告訴人は4日から姉の嫁ぎ先に手伝いに行っていること(姉が水疱瘡の為)
10日 午前10時位、姉と夫、子供2人、告訴人がアパートに来る。4時位に洗濯があるので嫁ぎ先に帰って行きました。
11日私、内妻、長女とセブ市に行く(以前からメイドのバールジィに次に私が帰ってきたときは、彼女の田舎(ビサヤ)に行く飛行機のチケットと休みをあげる約束をしてたので飛行機のチケットを買う為)午後4時過ぎにアパートに帰って来る。同時に告訴人も姉の所から帰って来ました。夜は近くの日本人(I日本から同行)のアパートへ行ったり来たりしていました。
12日 午前5時に空港へ見送り、午後5時位に帰る。Iのアパートに通約の為、行ったり来たり。
13日 午前10時位からIの所へ出入り(通約の為)午後5時位、内妻の母と叔母、夫、子供、2人が来ました。話しをしたり、食事したり、酒を飲んだりした後、9時位に帰っていく。
14日 午前7時に内妻の母親が来る。私、内妻、長女、母、告訴人とセブ市に行く。午後4時位に帰る。夕方、Iの事で女性が来る。通訳、1万ペソをIに貸し女性に支払い帰って頂く。夕方、母が帰る。
15日 母親が私達と同居を願う。午前9時位に荷物を持って来る。夕方、メイドが彼女の姉の夫と田舎から帰って来る。一緒に酒を飲む。
16日 午前中、Iが来る。彼の明日の誕生日の相談、酒を飲む。
17日 朝からIの誕生日の為、彼のアパートに行く。午後10時位に帰る。
18日 Iの所のメイドが私を呼びに来る。一緒に酒を飲み午後10時位に帰る。
19日 明日のカモテス島(ダナオ市から南東に小型の船で2時間)に近所の人達と行く為に内妻、告訴人が朝から買出しに行く。午後6時位に近所に店を持っているN氏夫婦が来る。8時過ぎに帰る。
20日 午前7時にカモテス島へ行く。
21日 午後3時ごろアパートに帰って来る。長女少し熱が有る。全員が疲れた為、早く寝る。
22日 長女の熱が下がらず、近所の医者に往診に来てもらう。長女の看病をしつつ全員早くから寝る。12時位にテレビの音がするので早く寝る様に注意。
23日 長女の熱が下がらず、近所の別の医者に往診に来てもらう。彼は小児科専門と知り合いから聞き、告訴人に呼びに行ってもらう。応診の結果、前の医者の処方した薬が子供には非常に強いとの事、大人の薬を処方していた。夜、Iが日本に帰るための相談。
24日 Iのメイドが呼びに来る。日本に帰る為の飛行機代の相談。酒を飲み夜10時位に帰る。
25日 午前10時位から、私、内妻、I、彼女とセブ市にチケットの予約に行く。アパートに帰って来るなり熱が出る。
26日 私は高熱のため、近所の医者に往診してもらう。午後から2、3回安否を気遣いIが来くる。
27日 又、往診に来てもらい、点滴をしてもらう。午後2時〜10時位まで点滴、午後から数回、Iと知人が安否を気遣い来る。
28日 目眩、熱が有り、Iが時々安否を気遣い来る。早く寝る。
29日 午前7時位、姉が来る。洗濯多しとの事で告訴人に手伝い求め、一緒に姉の嫁ぐ先に行く。
30日 まだ体調が優れず、午前10時位、Iが来る。夕方、パンの手産
※ 以上が4月の私の行動です。3日連続で3回も強姦は無理と思います。
※ 尚、告訴人は訴えで強姦をされた日時が無し、月だけでどうして有罪に出来るのか?又、告訴人は強姦された時、学校の制服を着ていたとの供述、4月はフィリピンの学校は全て夏期休校です。又、3回の内1回は外の庭を母親が清掃していたとの事、私が居た部屋は外から中が見える。ましてガラス窓でないので少し声を出せば、母親に聞こえたはず。アパートを替わるごとに一緒に来た。等々と不快な点がある。

5月7日 Iが日本に帰る。
9日 ジンジンコンパウンドに引越しする。3号室に入室、4号室は日本人のO岡氏。
13日 酒に酔って私は内妻とケンカ、内妻の頭を縫うほどの怪我をさせてしまう。
18日 メイドが給料を催促して来た。初めての事。
20日 メイドと告訴人が早朝から家出、内妻と長女を連れてセブ市に探しに行く
24日 ケソール(告訴人の実家)に内妻が探しに行く、午後アパートに帰って来るが長女を連れて私のパスポートと現金を持って出て行きました。2,3日後、近所の人から内妻と告訴人が私を警察に訴えたのこと(強姦罪)、私は何もしていないから、問題が無いので、有難うと言って帰ってもらいました。数日後、裁判所からの呼び出し状が、来ました。私は知人に説明して、どうすれば良いかアドバイスをお願いしました。近所にワルサーと言う弁護士が居るからと知人は、私を弁護士の所に連れて行ってくらました。一応の話を終え、私の反論供述書を作って頂き、後日裁判所に行き、告訴人とDSWSと話し合いをしました。先方は訴えを取り下げないとの事。結局、逮捕状が出ました。ワルサー弁護士に仮に逮捕になれば保釈は取れるかとの私の質問に2、3年拘置所に居て、それから、出してやると言われ、解雇しました。
知り合いが、副市長と仲が良いとの事で相談に行きました。副市長は気のよい人で、彼の同級生のアロー弁護士を紹介してもらい、後日、アロー弁護士に会い行き話しをしました。本当に私が強姦をしていないなら、弁護を引き受けると言って、彼を雇いました。その後、知り合いに裁判長のESPEIDION RIVERALと検察官のGENEROSO CAPUYANを紹介してもらいました。知人はやはり比処フィリピンはコネが無いと弱いと私にアドバイス、知人に連れられ裁判長の自宅に挨拶に行きました。彼は私に対しての逮捕状を出した人を知り、初めはビックリしてましたが、話を聞き問題無し、無罪に成ると言ってくれました。後日(レッチョンと洋酒と少しのお金を届けに行きました)。数日後、今度は検察官に挨拶をする為、セブ市内のホテルに行きました。当日はセブ市全部の検察官の会、少しの間、話をして彼も裁判長と同じ問題無し、無罪に成るとの事
※ 後に検察官はDSWSのリクエストにより私達の法廷を除外されました。裁判長も又、判決前に退職しました。数日が過ぎ、私は知人に内縁の妻と子供に会って話をしたいと相談しました。彼はどうなるか分からないが、DSWSに行ってみるよとの事。私は逮捕状が出ている身分、本来は会える訳がありません。知人と彼の奥さんが、面会するとの名目。私は車の後部座席に身を潜めて場内に潜入。思った以上に簡単でした。内妻は初め恐る恐る出て来ました。私の居るのに気が付き混乱し、知人が、話が出来る状態まで落ち着かせてくれ、何とか話が出来ました。内妻は自分達のした事を謝り、早期にDSWSを出て私の所に帰って来ると言いました。
※ 後日、私が保釈中、告訴人に会った時、彼女も2、3回DSWSを出ようとしたが、捕まり、職員からは、もし告訴を取り下げる事が有ればなど色々と脅かされて、怖くてDSWSの職員の言う事を聞くしかなかったとの事。事実、警察では1回の強姦が、DSWSによって3回も増えた。
9月1日 私はセブ市に有るSMデパート内の銀行へ、カットムーンと言うセブ島北部に在る町(身を隠して所)から出向いていました。SMデパートの駐車場に着いた時、当時のセブ警察のCIS部署に逮捕されました。CISの取調べは無く、私物は全部取られました。一緒に居た知人が弁護士に連絡をして、翌日、面会に来ました。あと地方新聞社2社が来て、写真を撮られて少しのインタビュー、私は強姦を否定しました。
9月3日 ダナオ市に移送されました、9月10日、16日、19日と公判をし保釈されました。
※ 後日、保釈に理由を尋ねると強い証言、証拠が無いとの事、日本では起訴も出来ません。12万ペソの保釈金(40万円弱)は私にはありませんでした。知人が土地を担保にして保釈してくれました。
約4年の保釈の間、裁判をして2001年7月16日が判決日に決まりました。16日当日の判決は20日に延期との事。理由は事件当時、告訴人の年齢がわからない。12歳の時では刑の重さが大きい。
20日 弁護士は時間になっても来ない。電話をするとタイヤがパンクとの事で結局、法廷に居合わせた他の弁護士が私の判決文を聞くとの事、私は何も分からないまま終了しました。手錠を掛けられ拘置所に帰りました。夕方になって弁護士がきました。彼の一言目はもう一度保釈を取るとの事。私は一言、もういいです。帰ってください、あなた方の事が、信じられません。控訴もしなくていいです。モンテンルパに行きます。その翌日、大使館の電話番号も分からず、手持ちの本にS山さんの電話番号が在ったのでフィリピン在住、セブに近いと思って電話したが通じない、O昭さんに電話するが通じない。やっと分かったのがセブの日本領事館、電話すると出ました。近日中に行けると思いますとの返事。
結局は、翌日にロボットみたいな爺さんが来ました。面会は10分以内、名前、年齢、住所、罪名
マニュアル通りの質問が終わり、じゃあ頑張ってねと。帰って行きました。
8月19日 セブ港からフェリーでマニラに出発(囚人3名、刑務官4名、内縁、子供2人、母親、全ての家財を売って、最小限のバック7個)
20日 マニラ港着、昼ごろモンテンルパ刑務所RDCに着きました。10日位して当時の領事が面会に来ました。弁護士等の相談しましたが、領事からの返事は、大使館は何も出来ないとの事。母親からの送金手段を聞くと大使館は銀行では、ありませんの一言でした。後は言葉も出ません。10分弱で私は面会を放棄した部屋に帰りました。

冤罪で捕まった者の事考えた事有りますか?冤罪で捕まって居る者の寂しさ、苦しさが分かりますか?誰も信じられなくなり自殺まで考えた者の気持ち、分からないですよね。逮捕されたから、有罪判決になったからと言って、犯罪者扱いするのはどうでしょう。この様な事は、在フィリピン大使館だけですか?大使館職員だけの考えでしょうか?邦人保護とは、どの様な業務の意味を持っているのでしょう?事件、事故に巻き込まれたリ、でっち上げの事件で逮捕された者も居ます。在日本国大使館は立場から、自国民の保護、救済のため、事実関係を調査し、その現実に元ずいて、早期の措置を講じてほしいと思います。信頼を得る大使館ではなく、信頼出来る大使館になって頂きたい。

獄中 ギャングA VS ギャングB

ニュービリビット(モンテンルーパ刑務所)より1通の手紙が届いた。
早速お二人に会いに刑務所に面会に行った。そこでお二人から聞いたいろいろなお話、彼らが書き記している日記、他をここでご紹介していくことにした。彼らが本当に無罪なのかどうかの審議はわからない。しかし彼らが経験してきたことは計り知れないことばかりで我々がフィリピンと言う国とかかわっていくのであればいざそういう事件に自分が巻き込まれたときに役に立つ事が日記に書かれている。彼らの日常起こる刑務所内の出来事から、、彼らの訴え、愚痴、他をここで紹介していきたいと思う。ここから彼らの支援者が出てくるかもしれない?彼らはそれも期待していると言うことは本音の部分で話してくれた、、一人でも多くの人が彼らの獄中からの呼びかけに答えてくれればどんなにうれしい事か、、ほとんどの人には信じてもらえないと自覚しているしかし何処かに理解してくれる人がいるはずだとそれを信じて日記を書きたいと思う、最後に二人が口を合わせて言っていました、我々が外にいたとしたらこのような訴えに恥ずかしながら多分耳を傾けなかっただろう、、囚われの身となり初めてはめられた囚人の気持ちがわかった。まさか自分がこのようなことになるとは夢にもおもわなかった。と、、

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手紙1

手紙2


このたびJP,PJ両名が今後牢獄で生き抜く手段として支援者、親兄弟の寄付だけではなく、自立?
収入を作りたいということで、刑務所内で作られる製品?をここを使い売ることはできませんか?
と投げかけられ、獄中通信販売??みたいなものをテストで作ってみた。

まだ工事中で中途半端ですが完成させて彼らのビジネス?に一役のってみようとここの協力者の人達と打ち合わせさせていただき決めました。

そしてスポンサー様、協力者様のバナーを作成はらさせていただきたくさんの方との協力体制の中ここを運営させていただこうかと考えております。皆さんのご協力ご支援心よりお待ち申しております。
  ↓  ↓  ↓
http://monten.rakurakuhp.net/

獄中日記
今日、管理人様ら4名の方がご訪問下さった。皆様の数々の貴重な御言葉に感謝しています。又、日本の書籍を御持参下さり、本当に有り難いと思います。刑務所内では絶対に入手できない物です。管理人 J様 が話された、バラバの件は偶然でした。2002年に僕がミデゥム(中期刑)にて服役してた時、日本人の服役囚M田さんから、頂いた聖書が、そのバラバのメンバー2000年に訪問された時にいただいたと聞いていました。
今日、フィリピン人から聞いた話しだが、隣りの房の房長の内縁の妻の子世である。内縁の妻は以前に土地27ヘクタールを担保に融資を受けていた。ところが、今度はその土地を400万ペソ(1000万円)で売却してしまった。売却し受け取った現金は家族で分配したそうだ。土地の購入者は、土地が担保になっていることを知り、告訴する様だ。房長も内縁の妻もビクビクしている。400万ペソ返金しなければ逮捕されるだろう。房長にしてみたら面会者は、皆無に等しいし、内縁の妻と家族は詐欺罪として12年から20年の刑期だろう。昨日の夜、PJが最近マキシム(長期刑)も静かだから、近々トラブルが有ると言っていた。大きい事件ではないが、僕らの居室の真上の房の房長が飲酒し、酔っ払っている所を看守に発見され、ガードハウスに連れ込まれ、素手、棒で滅多打ちにされたらしい。殺されたかは現時点では不明。生きていたとしても、房長の座を失い、パトリーナ(懲罰房)か地方の労働刑務所へ飛ぶだろう。この房長は覚せい剤中毒で金があれば覚せい剤にふけっている。
スティン・イン(妻子の宿泊)中のトラブルで思い出すのは、2006年12月末のことだ。原因は、ビルディング3のギャング・グループ、ハッピー・ゴー・ラッキーの中国人がビルディング13のギャング・グループ、バタン・セブの人間に大麻を売った事から始まる。バタン・セブのメンバーは1本100ペソ(250円)の大麻を買い500ペソ紙幣で支払った、しかしハッピー・ゴー・ラッキーの中国人はつり銭を渡さなかった。その内、口論となり、その後、ギャング・グループ間の争いになった。両グループは武器を持ち出した、手製ショットガン、マシンガン、ナイフを使用し戦争状態に突入した。そこへ看守が散弾銃を発砲、みんな走って逃げ回った、僕も一緒に走り逃げた。看守は容赦なく発砲する。最後に残ったのは、死体が3体。この日のスティン・インの面会者に被害が無くよかった。PJから聞いた話だが、居室はガードハウスの近くで看守が威嚇射撃をした時、PJの娘2人は流れ弾の危険が有るので又、恐怖の為、床に伏せていたそうだ。PJも奥さんも顔を真っ青にして、ビビっていたとの事。日本でもなかなか体験出来ない事も、ここの刑務所では体験出来るのだ。

テーマ : (`д´)ウオォォォ!!
ジャンル : 日記

事件内容

ニュービリビット(モンテンルーパ刑務所)より1通の手紙が届いた。
早速お二人に会いに刑務所に面会に行った。そこでお二人から聞いたいろいろなお話、彼らが書き記している日記、他をここでご紹介していくことにした。彼らが本当に無罪なのかどうかの審議はわからない。しかし彼らが経験してきたことは計り知れないことばかりで我々がフィリピンと言う国とかかわっていくのであればいざそういう事件に自分が巻き込まれたときに役に立つ事が日記に書かれている。彼らの日常起こる刑務所内の出来事から、、彼らの訴え、愚痴、他をここで紹介していきたいと思う。ここから彼らの支援者が出てくるかもしれない?彼らはそれも期待していると言うことは本音の部分で話してくれた、、一人でも多くの人が彼らの獄中からの呼びかけに答えてくれればどんなにうれしい事か、、ほとんどの人には信じてもらえないと自覚しているしかし何処かに理解してくれる人がいるはずだとそれを信じて日記を書きたいと思う、最後に二人が口を合わせて言っていました、我々が外にいたとしたらこのような訴えに恥ずかしながら多分耳を傾けなかっただろう、、囚われの身となり初めてはめられた囚人の気持ちがわかった。まさか自分がこのようなことになるとは夢にもおもわなかった。と、、

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手紙1

手紙2


このたびJP,PJ両名が今後牢獄で生き抜く手段として支援者、親兄弟の寄付だけではなく、自立?
収入を作りたいということで、刑務所内で作られる製品?をここを使い売ることはできませんか?
と投げかけられ、獄中通信販売??みたいなものをテストで作ってみた。

まだ工事中で中途半端ですが完成させて彼らのビジネス?に一役のってみようとここの協力者の人達と打ち合わせさせていただき決めました。

そしてスポンサー様、協力者様のバナーを作成はらさせていただきたくさんの方との協力体制の中ここを運営させていただこうかと考えております。皆さんのご協力ご支援心よりお待ち申しております。

獄中日記
起床後、僕は日課である、モーニング・デボーション(教会)に行き聖書の勉強をしている。今日はヨハネの手紙I2章6節から9節その中に(自分はクリスチャンだと言う人は、キリストと同じ生き方をすべきです)というお言葉がありました。別に自分が十字架に掛けられて死ぬと言う意味ではありません。全ての罪を取り除き、全ての人を愛する事がキリストと同じ生き方と僕自身理解しているが、これが実行出来ないのが、人間の弱さと思う。欲には、食欲、金欲、性欲、数々の欲がある。これらを自制することは、通常出来ないだろう。欲の為に争いが各地で発生しているし、傲慢となりコントロール不能となる。お互いに自減を待つだけである。イエス・キリストは我々の罪の為に自ら十字架に掛けられ死なれた、これこそ愛である。僕もクリスチャンと成り、まだ5年でまだまだ勉強不足だし、今すぐキリストと同じ行き方には、まだ程遠い。一生の間でと思った、少しでも近づく事は可能であろう。1ヶ月に1度、マカティ市のマニラ日本語教会の方々がご訪問下さり聖書について御指導を受けている。感謝するのみです。アーメン。
テレビを見ていると毎日何処かで強盗、殺人事件が発生しているが、必ずと言って良いほど犯人が射殺されている。フィリピンで人命第一という言葉が無いのだろうか。日本で言われる、日本警察の原則、罪をにくんで、人をにくまず。テレビニュースの報道でも、人権とか礼をいったものが感じられない。日本では逮捕された容疑者からインタビューは警察官がガードして一切出来ない、まして死体の撮影なども出来ない。フィリピンは容疑者のインタビュー等も放映するし、路上で射殺された死体までテレビで流す。犯罪者かも知れないが死者に対する礼、人権を尊重してもらいたい。フィリピンの裁判制度もアメリカを模範としたようだが、まったく利にかなっていない。裁判で被告人の情状等を考慮し、刑を下すが、フィリピンでは、ガイドブックを見て、殺人罪14年から20年、無期刑、覚せい剤OOg無期刑、大麻OOg無期刑、強姦罪回数2回無期刑2件、イリーガル、リクルートメント被害者3名無期刑、強盗罪無期刑とガイドブックを見て判決を言い渡す。
はっきり言って誰でも裁判官は出来る。僕の事件は詐欺罪だが金額が日本円で285万、裁判官は言う、5万ペソ(125.000円)で何年だから、合計すると禁固100年と言った。しかし詐欺罪の最高刑は12年から20年だから、そのまま12年から20年の刑を言い渡された。例えば日本で詐欺罪は4〜5年かな。僕が日本在住の日本人から現金を借りたのは事実だが日本へ帰り返済する旨の約束が有ったのに何故フィリピンで逮捕されるのかと思った。日本であれば民事事件と思う。刑事事件にするには一つ理由がある。現金を貸した日本人の恋人フィリピン人がイリーガル、リクルートメントで多額の返済を求められ、現金が必要となったからである。ウワサでは1.800万ペソ(4.500万円)を得た裸子。それで僕を告訴すれば、支払うと思ったのでしょう。その女性の名は、B・サンチャゴ、現在、指名手配中。
日本人でPJは強姦罪として服役している。逮捕時は強姦1回での告訴であったが、司法機関での最後の結論は強姦罪4回で裁判でも無期刑4件の判決である。PJは裁判当初から無罪を訴えていた。今現在7年服役しているが、最近、告訴した女性から申し訳ない、私の告訴は事実無根であると証言してもよいと言っている。女性が裁判所へ出頭し調書を作成すれば数ヶ月で無罪として出所出来るが、その費用、裁判所の支払い、交通費、弁護士の支払いの金と苦労している。大麻事件で服役してる日本人は2名だが、昨年の暮れ拘置所から刑務所に移動して来た1名は無罪を主張している。所持を密告した者が存在するのかもしれないが、大麻を身に着けていたらしい。控訴しているが、結果はいかに。裁判での判決は無期、年齢は40歳、サーフィンで各国を旅行した様だ。次にサーフィンが出来るのは60歳位かな。ここで書く名前はチューブ。この大麻事件は他から聞いたもので、事実関係は不明。大麻事件で聞いた事がある。日本人2人が大麻40kg所持で有罪となり、刑務所で服役していたそうだ。その方の名前はK、K村さんで控訴し、最終的には無罪で出所した。残された大麻は、誰の物で何処に行ってしまったのだろう。大麻が煙になり消えた。K村さんには、まだ、面白い事件がある。拳銃の弾を持ち帰ろうとして、腰に弾を巻いて空港へ行き、当然の様に捕まった。罰金を払って、事件は一件落着。K村さんは今、日本で暮らしているが、フィリピンには、奥さんが居りK村さんの来る日を待っている。K村さんには、まだまだユニークな話がある。元々、足が不自由だが生活には支障がない。K村さんは、病院へ入院する為、大演技を打った。人が多数集まる公園で、倒れ病院へ担ぎこまれ、出所まで病院で入院していた。シャワーはみんなが寝た後に、こっそりと、仮病がばれるからである。K村さんは出所後、インターポール同伴で帰国、国際手配の切符を持参のうえ。事件は旅券法、ほかに銃刀法、又は火取法と聞いた。
又、マニラ市拘置所にも過去、傷害致死で拘留されていた、M田氏、N村、その他が、被害者家族と示談が成立し、保釈となった。日本円で数百万円らしい。日本で傷害致死で、示談は有りますか?殴り殺しているのに。やはりM田氏は、日本からの国際手配で帰国しました。事件は殺人死体遺棄と思います。現在もK本刑務所で服役中です。事件は別として気の毒ですよ。本人はフィリピンの妻子の事を心配していたが、当の本人は、男を次から次へと変えている。フィリピンで言うパロパロ(蝶)ですョ。男なら花から花へだけど女の場合は何と言ったら良いのだろう。小枝から大枝へでも言っておきましょう

懲役囚の希望

ニュービリビット(モンテンルーパ刑務所)より1通の手紙が届いた。

早速お二人に会いに刑務所に面会に行った。そこでお二人から聞いたいろいろなお話、
彼らが書き記している日記、他をここでご紹介していくことにした。
彼らが本当に無罪なのかどうかの審議はわからない。しかし彼らが経験してきたことは計り知れないことばかりで我々がフィリピンと言う国とかかわっていくのであればいざそういう事件に自分が巻き込まれたときに役に立つ事が日記に書かれている。彼らの日常起こる刑務所内の出来事から、、彼らの訴え、愚痴、他をここで紹介していきたいと思う。
ここから彼らの支援者が出てくるかもしれない?彼らはそれも期待していると言うことは本音の部分で話してくれた、、一人でも多くの人が彼らの獄中からの呼びかけに答えてくれればどんなにうれしい事か、、ほとんどの人には信じてもらえないと自覚しているしかし何処かに理解してくれる人がいるはずだとそれを信じて日記を書きたいと思う、
最後に二人が口を合わせて言っていました、我々が外にいたとしたらこのような訴えに恥ずかしながら多分耳を傾けなかっただろう、、囚われの身となり初めてはめられた囚人の気持ちがわかった。まさか自分がこのようなことになるとは夢にもおもわなかった。と、、

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手紙1

手紙2


過去に放映された刑務所内の実態ドキュメント現在ここの管理人さんのお一人管理人Jさんが撮影コーディネート、製作に加わった番組、

懲役のない刑務所 〜フィリピンの日本人死刑囚〜
2004年10月13日(水) 03:00〜03:55 放送 (2004年10月12日(火) 27:00〜27:55 放送)
【再】2006年3月5日(日) 02:40〜03:40 放送 (2006年3月4日(土) 26:40〜27:40 放送)
  ↓  ↓  ↓
フィリピンの日本人死刑囚へジャン プ

昨日リーアルミッションファンデーションへ活躍期待しています、がんばってくださいと、リゾカジグループの西遊記様がここ春一同さまからと寄付金をお持ちいただいた、代表のナオ様はじめ皆様ここをお借りして心よりお礼を申し上げいたします。ありがとうございました。

寄付


 獄中日記

今日の天候は、早朝パラッと小雨が降ったが、青空が広がり暑い一日であった。しかし夕方が雷と共に雨が降り出した。フィリピンの自宅に電話した。義母が電話口に出た。子供、次女が風邪気味らしい、体調が良くなれば面会に来ると言っていたが、会いたいのが本心だが無理しないでほしい。子供と再会するのは、約5年ぶりに成る。今6歳、7月22日で7歳の誕生日を迎える。僕のことを覚えているか心配である。何を話したら良いのか、思い浮かばない、血のつながった我が子だから気持ちが通じ合えば良いのだが。長女は今9歳、最後に会った時は4歳だから、僕の事を憶えていると思う。一日も早く会いたい。
でも生活費、学費等、渡して上げられないのが情けない。日本では14年前に離婚した子供は男の子2人で、今、長男23歳、次男21歳である。離婚した当初、長男は僕が引き取り9歳〜12歳まで、僕と2人で生活していた。3度の食事、遠足、運動会、サッカーの練習、試合にも同行した。一般家庭の様に食事を用意し参加した。毎週日曜日は2人でドライブ、カートに乗車し子供と競争した事も、又、日光や千葉県まで魚釣り、キャンプそして小学校の卒業記念として、子供とサイパンへも行った。トローリング、パラセーリング、ガンの射撃など、日本では経験出来ない事を体験させた。子供が13歳の時、母親の元に返し、1年に1度2人の子供が夏休みに上京し再会した。旅行を楽しんだ事が思い出される。今、僕が刑務所に居るとは、とても言えない。。
子供二人は、すでに成人だが、僕の心の中では別れた時の年齢のままである。あの時離婚していなかったら、ぼくはフィリピンの刑務所には入っていなかったと後悔しても遅い。
今の妻と結婚したからこそ、二人の娘に恵まれたのだから。妻を愛し、子供を愛し、1日も早く4人で暮らせるように、また、4人で日本へ行くことが出来る様に希望をいだいている。
今日のあさ、ミディァム・セキュリティー・コンパンド(中期刑)での知り合いに会った。彼は2005年に仮出所したのになぜ、マキシム・セキュリティー・コンパンド(長期刑)に居るのか聞いてみた。仮出所後、話し合い中に口論となり、包丁で3度刺して殺害したらしい。酒は飲んでいなかった、ただ高血圧で頭に血が昇ったらしい。以前、高血圧で倒れ左足が弱干、不自由になった。本人言く、出所は2028年だそうだ。彼は今、33歳で出所は53歳とまだまだ働く事は出来る。健康管理に万全の注意をしなければいけない。刑務所内の病院では年間約150人位が死亡している。病院だからっと言って安心しては、命取りとなる。血液採取、注射、点滴は看護婦や看護士ではない。囚人が行っている。今は注射器は1度で捨てているが、以前は使い回し、伝染する病気、エイズ、性病、肝炎は危険である。過去、刑務所の病院では肝臓の販売希望者から肝臓を摘出し所外へ販売していた。囚人の手取り額は3万ペソ(7,500円位)から5万ペソ(12万5千円位)で売買されていた様だ。しかし実際の売買金額ははるかに高いと思う。日本であれば数百万から数千万位するのでは、その点は分からないが、日本でも他の国でも肝臓移植を必要する方が多い。フィリピンも原則として禁止している様だが闇の世界では例外で販売されている。精神病の房が在るが常時70〜80名は入房している。少々安定すると一般の房舎は戻る。しかしいつ精神に異常が発生するか心配である。寝ている間に刺される可能性もある、放火することも考えられる。フィリピンでは逮捕時に精神異常の疑いの者に対して精神鑑定は無いのだろうか?裁判でも判決に大きく左右すると思うが。
証拠品の保全もズサンである。犯行に使われた銃器を素手で触ったり、裁判中でも証拠品が紛失する事もある。フィリピンは自白は証拠となるが、日本は自白は参考までで証拠としては認められない。日本とフィリピンの裁判の形は違う。日本は無罪からスタートし、証人、証拠品等で犯罪を裏付ける。しかしフィリピンは有罪からスタートする、被告人側が自分が無罪と成る様な証人、証拠品を発見、提出しなければ、有罪と成る確率が高い。日本は、疑わしき罰せず、フィリピンでは、疑わしきものは罰する。多分、日本で裁判を行えば3分の1は無罪でしょう。例えばAと言う女性がBの男性に強姦されたと告訴された場合、間違いなく有罪で無期刑だろう。又、警察官等、現金を脅し取ろうとした場合、外国人の乗車する車、バック類に覚せい剤、大麻、ヘロイン、コカインを投げ入れ、薬物の不法所持で逮捕する。と言われたら、それはビックリするだろう。その後、20万ペソ(約50万円)とか100万ペソ(約250万円)支払えば示談にすると言われたら、刑務所で15年以上服役する事を考えれば、泣く泣く現金を渡すだろう。フィリピンは悪徳警官がゴロゴロしている。警察官自身も凶悪犯罪を犯すし、薬物乱用者も多数存在する。
年に1〜2回警察官に対する薬物検査も行ってはいる、でもこの検査で告発されるのは、ほんの一部。検査員に現金を渡すか、他人の尿を入れれば良いのだから、正直者はバカを見る。警察官の囚人、未決囚を合わせたら500人を下らないと思う。日本の警察官は数人でしょう。
今日の食事
朝食、フィリピン風のおかゆ
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プロフィール

管理人

Author:管理人
メールアドレス  free4649@msn.com

P J  1962年2月4日生まれ 46歳   
    罪名 強姦罪 刑期 無期1997年9月1日 1997年9月1日 12歳の子をレイプしたと訴えられセブ署にて逮捕 9月3日ダナオ刑務所に移管2週間後保釈、2001年7月20日 判決 2001年8月20日 モンテンルパ刑務所に移管


P J  1957年5月5日生まれ 51歳            
    罪名 詐欺罪 刑期 16年〜20年 2001年9月24日 マカティ警察 逮捕 拘留 9月27日ビクータン入国管理局留置所 2002年10月4日 判決が下り 2004年10月10日 ニュビリビットモンテンルパ刑務所 Mediam 入所 2006年4月6日無期死刑房に移管、現在に至る。

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